アラスカ州北部または中部を旅行する人なら 旅の一部として、ほぼ確実にフェアバンクスに立ち寄ることでしょう。 31,000人以上の人口を 誇るフェアバンクスは、アラスカ内陸の最大の都市で、 アラスカ全体で2番目に大きな都市です。 もともとは金鉱キャンプ として設立されたフェアバンクスは、 軍隊、資源採掘、観光産業の 中心地としてアラスカの最も重要な都市の1つに なりました。

アラスカ最古の市ではないものの、フェアバンクスは商業の 中心になり、 時とともにフェアバンクスの商業の焦点は 移り変わりました。 アラスカ州フェアバンクスの歴史については、以下をお読みください。

アラスカ州フェアバンクスの歴史

フェアバンクスはアラスカ先住民の定住地ではありませんでしたが、考古学の証拠によると、この市は設立前の数千年の間にアサバスカ族によって様々な目的に使用されていました。 アラスカ先住民はフェアバンクス周辺を季節的な狩猟と採集に使用していました。 フェアバンクス自体は遠隔地であり、気候が極端なため、永久的な定住地としての有用性は限られていました。

歴史家の中には、チェナ川とタナナ川は、 1800年代の中頃にロシア人とハドソン湾会社の探検家により地図にされた と考える者もいますが、この説には証拠がありません。 当初アラスカは ロシア人により植民地化され、統治されていましたが、内陸への旅は 高価で危険なばかりか、経済的な利点がないと考えられたため、 ロシア人の移住は沿岸地帯に限られていました。

フェアバンクス周辺への最初の遠征は、 1885年に記録されました。 アメリカ陸軍の大尉、ヘンリー・トルーマン・アレン により率いられた探検隊はタナナ川を下り、チェナ川の河口を 地図化しました。 この地域は、1896年に近隣のユーコン準州のドーソン市でクロンダイク・ ゴールドラッシュが起こり、アメリカとカナダから数千人が富を得るために 殺到するまで、あまり関心を持たれませんでした。

フェアバンクスは、E.T.バーネット大尉がタナクロスの町へ 行く途中、チェナ川の河岸を旅した時、 1901年に設立されました。 バーネットにより戦略的に貴重な場所として交易所を建てられたフェアバンクスは、 補給地点として金鉱労働者の間で急激に人気が高まりました。 もともとはチェノア市と名付けられましたが、1903年の編入の際、インディアナ州 出身の共和党の上院議員で後にセオドア・ルーズベルトの下で副大統領に就任した チャールズ W. フェアバンクスの名をとって、フェアバンクスと名付けられました。

クロンダイク・ゴールドラッシュが下降気味になると、フェアバンクスは タナナバレーの第2のゴールドラッシュの中心として新しい重要性を帯び、 1905年までには金採掘による収益が600万ドルまで増加しました。 フェアバンクスは 耕地向きの土地であることと、アラスカ外部からの食品輸入の費用のために、 重要な農業の中心地になりました。 E.T. バーネットはフェアバンクスの最初の 市長になりましたが、1911年に所有していた銀行が破綻し、その銀行から 横領したという理由で裁判にかけられ失脚しました。

フェアバンクスは1900年代に急激に成長し、1911年には 人口が3,500人まで増加し、アラスカ最大の市になりました。 ところが、 タナナバレーの金鉱が枯渇すると突然運勢が逆転し、 事業が倒産し、人々が市を去りだしました。 第1次世界大戦中は、召集年齢に達した 多数の男性がヨーロッパで戦うために入隊し、この市はさらに打撃を受けました。 1918年 にはフェアバンクス でインフルエンザが流行し、アラスカで3,000人ほどの人が 拍車を掛けました。 1923年、フェアバンクスの人口は1,000人未満に減少しました。

1920年代にはフェアバンクスの景気停滞は アラスカ鉄道とアラスカ大学により、若干回復しました。 1923年にアラスカ 鉄道が完成し、フェアバンクスがアンカレッジやスワードと接続された ために、この市への高速輸送と物資の移動が可能になり、 金鉱産業が強化されました。 1922年、アラスカ農業大学と 鉱業学部(現在ではアラスカ大学フェアバンクス校として知られる) が開校され、アラスカの高等教育の主要機関に なりました。

またフェアバンクスは地域の金鉱の業績が改善し、 金の価値も上昇したため、世界大恐慌にほとんど 影響されませんでした。 1933年、フランクリン・ルーズベルト大統領は、1オンス当たりの 金の価格を35ドルに固定する法律を通過させ、これがアラスカの金鉱の繁栄に 拍車を掛けました。 ルーズベルトが同年後半に銀行休業日を宣言した時、フェアバンクスの銀行は これを不要と述べ、辞退しました。 フェアバンクスは以前全焼した校舎を 取り替える新たな校舎を建設し、1938年には連邦政府の 援助を受け、新しい道路を建設しました。

当時の飛行技術の向上もフェアバンクスに 有利になりました。 1920年代から1930年代にかけて民間航空の人気が高まり、 政府高官はアラスカの人口の少なさと道路網の欠如から アラスカ州民の交通と商品の輸送には航空が 最も費用対効果が高いと主張しました。 アラスカ 内陸の最大都市としてフェアバンクスは、航空輸送の中心地になりました。 ニューヨークと東京間のフライトは、フェアバンクスを燃料補給基地として使用し、 1933年のウィリー・ポストの世界一周飛行と1938年のハワード・ヒューズの 単独飛行はフェアバンクスでストップしました。 軍隊もフェアバンクスを航空機の運航に貴重な中心地 として見ました。

1940年代のアラスカでの軍事活動の増加は、 フェアバンクスを変えました。 日本に近接するという戦略的な位置のために、アラスカはアメリカの 軍事活動の中心地になりました。 1939年に建設されたラッド陸軍飛行場は、 地域の軍隊航空活動センターでした。 またアメリカとカナダは フェアバンクス、ドーソンクリーク、ブリティッシュコロンビア間に アラスカハイウェイを建設し、フェアバンクスを初めて北米道路網に 接続しました。

第2次世界大戦終了後、フェアバンクスは冷戦と ソ連への近さのために重要性を保持 しました。 ラッド陸軍飛行場と近辺の軍事施設は遠隔監視と 防諜活動の重要な基地になりました。 この時期、 フェアバンクスの人口は飛躍的に成長しました。

1960年代と1970年代にフェアバンクスは石油産業の中心地という もう1つの役割も果たしました。 アラスカ州ノーススロープ郡に位置するプルドーベイ での原油の発見は、プルドーベイとアラスカ南部の沿岸都市、バルディーズ を結ぶトランス・アラスカ・パイプライン・システムの建設の契機になりました。 地域の最大都市として、フェアバンクスはプルドーベイを往復する トラック運転手やその他の車両の重要な停車場所になりました。 1970年代の ダルトンハイウェイの建設完成は、アラスカ北部沿岸部への 交通手段を作りました。

1967年、フェアバンクスは降水量により水位が上昇した チェナ川による大洪水に襲われ、市のほぼ全体が冠水しました。 将来 の洪水を予防するために、アメリカ陸軍工兵隊は市内に流れる込む 水量を調節し、過剰な水量をチェナ川から近辺のタナナ川に放水する チェナリバー・レイク洪水コントロールプロジェクトに取り組みました。

今日、フェアバンクスはアラスカ州の最も重要な都市の 1つです。 ダルトンハイウェイが通過し、アラスカハイウェイに隣接するため、 旅行者とプルドーベイ油田を往復する人々が頻繁に立ち寄る場所であり、 冷戦終了後も主要な軍事センターとして活躍して います。 フェアバンクスは観光の中心地でもあり、多くの観光客が 地域を訪れる際、乗継地点として使用します。 またこの市はアラスカ内陸部 とカナダのユーコン準州のサービスセンターとしても機能します。

結論

フェアバンクスはアラスカとアメリカの最大都市ではありませんが、この国と州の歴史に大きな役割を果たしてきました。 ゴールドラッシュの町とした始まったフェアバンクスは、アラスカ経済と北極地方の観光センターに主な役割を果たす市として発展しました。 アラスカ州を訪れるならフェアバンクスに立ち寄り、この市が提供する全てを鑑賞しましょう。

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