アラスカが50州ある米国の州のなかで最大で最北にあることは 良く知られています。 1867年に買収され、1959年に州になったアラスカは、 合衆国本土からカナダにより分離された 世界最大の行政区画の1つです。 アラスカがアメリカ合衆国の一部になってから、 アラスカ州は豊富な石油、ガスの埋蔵量、金鉱、 壮大な景観、ユニークな野生生物のために 資源採掘や観光の中心地になりました。

アラスカ州はしばしばアメリカ人にとって補足のような存在ですが、 アラスカのアメリカの歴史に対する貢献度は、その遠隔な土地柄と僅かな人口に も関わらず大きなものです。 アラスカの歴史については、以下をお読みください。

アラスカの歴史

欧州とアメリカの植民地になる以前に、アラスカは数万年以上先住民により居住されていました。 21,000年以上前にアラスカは、現在ベーリング海峡が存在する大きな陸地であり、北極海と太平洋を分離したベーリング陸橋を経由してアジアと繋がっていました。 先史時代の民族はシベリアからベーリング陸橋を通して移動し、北米大陸に定住したと考えられています。 遺伝子検査によると、北米の先住民族はシベリアとアジアの先住民と関係していることが明らかにされています。

アラスカ先住民にはユピク族、アサバスカ族、 ハイダ族、トリンギット族、その他の部族が含まれ、彼らは州の気候に従って 独自の習俗を形成しました。 一部の人の考えに反してアラスカ州は全てが凍結した 不毛な地ではなく、 南部の沿岸地帯は北部より温暖な 気候を持っています。 しかしアラスカ州の 厳しい天候のために大規模な農業は困難で、 多くの先住民は 漁業、捕鯨、狩猟、採集、および遊牧や海洋活動で 生計を立てていました。

遠隔地にあるために、アラスカはアメリカ大陸のなかで 西洋人により発見され、定住された最後の土地でした。 研究者 のなかには、ロシア人の探検家がアラスカに最初に到達したのは1600年代と 考えるものもいますが、西洋人がこの領土に到達したことが最初に確認されたのは 1700年代になってからです。 誰もが認めるアラスカに最初に到着したヨーロッパの船舶は、ロシアのセント・ ガブリエル号で1732年にミハイル・グヴォズデフとイヴァン・フョードロフ船長が この土地に到着しました。 これらの遠征はロシアのシベリア以東への 拡大政策により拍車が掛けられました。

さらに重大な遠征はロシア海軍と提携したデンマーク人の探検家、 ヴィトゥス・ベーリングが聖ピョートル号で率いた 探検隊でした。 ベーリングの船はアラスカ海岸で収穫したラッコの生皮とともにロシアに 帰還しました。ラッコの高品質の毛皮を見てロシア政府は アラスカを所有すべき貴重な植民地と考えました。 ロシアは1784年にヨーロッパ人による最初の永久的な植民地を築きました。 1784.

1700年代の後半にスペインはアラスカに幾つかの探検隊を送り、 この土地を所有し、アメリカの既存の植民地の 一部にしようとしました。 1789年、スペイン人はヌートカ湾に要塞を築きました。 この地域に存在するバルディーズやコルドバなどの都市名は、 スペイン語に由来します。 しかし1800年代初めのナポレオン戦争と スペインの植民地帝国の解体が、彼らのアラスカでの 恒久的な駐留を白紙に戻しました。

ロシアはすでにカナダの北極地方の大部分を植民地化した英国企業、 ハドソン湾会社から自分達の領土を守るために、 1799年に露米会社を設立してアラスカを植民地化 しました。 露米会社は植民地の首都とされたアラスカ・パンハンドルの シトカ市(1804年から1867年まではニュー・アークエンジェルとして知られる) に設立されました。 しかしロシア人のアラスカ定住者は 数千人に限られ、ロシアは高い費用のために内陸地の 領土を探検しようとしませんでした。 ロシア文化の遺産は今日も アラスカに残っています。最も有名な遺産は 沿岸地域のロシア正教教会です。 ロシアは南方の カリフォルニア州サンフランシスコにも交易所を建設しました。

1800年代の中頃、ロシアはアラスカを他国に売却することを 検討し始めました。 その理由は、ロシアが1853年から1856年にかけて戦ったクリミア戦争に 敗れたためです。 ロシアはこの戦争によりほぼ破産し、 ロシア海軍が一連の戦いで英国海軍に負け続けたことから、 次の戦争が起こった時アラスカを防御できないと判断しました。 またロシアはアラスカからあまり利益が得られず、大規模な軍の駐屯地を 保護しなければなりませんでした。

ロシアは最初、アラスカが英国のカナダ植民地に隣接していることから、 英国に売却することを考慮しました。 しかしアラスカが シベリアに近いこと、そしてロシアと英国は中央アジアとインドへの影響力に 関して敵対関係にあったため、ロシアとの国境に近い広大な沿岸地帯 を英国に手渡すことは危険であると判断しました。 さらに英国はブリティッシュコロンビアを通して太平洋に十分なアクセスが あったため、アラスカ購入に無関心でした。

このため、ロシアがアラスカを売却できる 唯一の国はアメリカでした。 またロシアはアメリカとの関係を改善することで、 アメリカを英国に対する強力な同盟国にできると考え ました。 1860年代初めにロシアはアラスカ売却についてアメリカに打診しましたが、 当時アメリカは南北戦争で混乱していたため、その申し込みに 反応しませんでした。

戦争終了後、ロシアとアメリカの間でアラスカ売却の 交渉が始まりました。 1867年3月30日に売却条約が調印され、 アメリカはアラスカを720万ドルで購入しました。 この売却は国務長官 ウィリアム・スワードにより仲介されましたが、アラスカを 使い物にならないとみなし、アラスカ購入を「スワードの愚行」と呼ぶ 人々から非難されました。 同年の10月18日、露米会社が解散しアラスカは 正式にアメリカの統治下に移されました。

アラスカは最初、シトカを首都とする民間のアラスカ地区に 再編成される前に軍隊によりアラスカ省として 1884. 管理されていました。19世紀を通してアラスカは アメリカ人が移住したがらない唯一の地域でした。 アラスカの 厳しい気候、遠隔さ、リソースの乏しさが定住の阻害要因に なりました。

1896年にユーコン準州のクロンダイクでゴールドラッシュが始まると それが一変しました。 アラスカ内陸部に金鉱床が発見され、数千人の アメリカ人とカナダ人が地域に殺到しました。 アラスカの急速な成長のため、 1912年に政府はアラスカをアラスカ準州として再編成しました。 1906年に 地域の人口増加の管理を改善するために、アラスカの州都がシトカから ジュノーに移転されました。 また1903年に調停が成立し、 アメリカは 長期間続いていたカナダとのアラスカ国境紛争を終了し、 (カナダの外交関係を常に管理した)英国がアメリカに有利な判決を下して アラスカ・パンハンドルの領地を拡大しました。

20世紀初頭にゴールドラッシュが 沈静化すると、 アラスカは軍用航空の中心地としての新しい重要性を帯びました。 第2次世界大戦中、 日本の軍隊がアラスカ領土の南西部の島々、 アッツ島、アガッツ島、キスカ島 を占領しました。 占領はアメリカ軍の反撃が成功するまで 1942年から1943年まで続きました。 ダッチハーバーの 米国海軍機基地も日本に対する攻撃の重要な拠点地に なりました。 アラスカはレンドリース法の中継点として使用され、飛行機や その他の軍需品がアラスカを経由してソ連に送られました。 この戦争の間、アラスカはブリティッシュコロンビアのドーソンクリークから フェアバンクスの南まで走るアラスカハイウェイを通して、ついにカナダと アメリカ本土と接続されました。

戦争終了後、アラスカは冷戦に関する 軍事拡大と資源開発により成長を 続けました。 1946年の住民投票後、1940年代から1950年代にかけてアラスカを アメリカ連邦に加入させる動きがありました。 議会の議員からの強い反対にも 関わらす、1958年、アラスカを州に昇格させる法案が通過しました。 1959年、 アラスカは1912年にアリゾナが連邦に加入してから 初めて49番目の州として正式に連邦に加入しました。

1964年にアラスカはグッドフライディ地震に襲われ、 この地震の後に起こった津波により133人の死者を出し、 州南部の沿岸都市は壊滅的な被害を受け ました。 リクタースケールでマグニチュード9.2を記録した このグッドフライディ地震は、1960年にチリで起こった チリ地震に次ぐ史上2番目に大きな地震でした。

1968年にノーススロープ郡でプルドーベイ油田が発見された後、 1960年代のアラスカ経済は順調に拡大しました。 1977年にトランス・アラスカ・パイプライン・システムとダルトン ハイウェイが完成し、州の人口と経済に大好況が訪れました。 1989年に オイルタンカーのエクソン・バルディーズ号がプリンス・ウィリアム湾の 岩礁に衝突し、1100万ガロンの原油を太平洋に流出し、アラスカの野生生物に 致命的な損傷を与えました。

今日、アラスカは高賃金と活況を呈する雇用市場でアメリカで 最も富裕な州の1つに挙げられています。 アメリカで最も人口が少ない 州の1つですが、現在もなお石油産業による経済成長が 続いています。 多くの旅行者がオーロラやデナリ山などの自然の驚異を見るために 訪れるため、観光もアラスカの主要産業になり ました。 アラスカはまた軍事活動の中心地でもあり、 北極地方の経済発展と貿易への関心のため、新たな重要性を得る 可能性があります。

結論

アラスカのアメリカの歴史と文化への貢献は語り尽くすことができません。 人口が少なく遠隔地にあるにも関わらず、アラスカはアメリカのエネルギー産業や海外での戦争に重要な役割を果たしてきました。 未来は確実ではありませんが、豊富な自然資源と戦略的な位置により、アラスカがアメリカの未来に重要な役割を果たすことはは間違いないでしょう。

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