トランス・アラスカ・パイプライン・システムは、 アラスカ州の経済と背景に最も重要な出来事の1つです。 1977年に完成した このパイプラインはプルドーベイからノーススロープ郡を縦断して アラスカ州南端の港町、バルディーズまで走り、原油の世界への簡単 かつ迅速な輸送を可能にします。 パイプラインはプルドーベイ市に接続する主要な道路、ダルトン ハイウェイと並行して走り、フェアバンクスを訪れる旅行者の 観光アトラクションになっています。

トランス・アラスカ・パイプライン・システムは 提案された時から 論争の的となり、その存在に関する議論はいまだに続いて います。 しかしながら、パイプラインがアラスカ州民とアメリカ人の生活 を劇的に変えたことは議論の余地がありません。 トランス・アラスカ ・パイプライン・システムの歴史について学ぶには、以下をお読みください。

トランス・アラスカ・パイプライン・システムとフェアバンクス

アラスカでの石油の探査と採掘は1800年代に始まりました。 ノーススロープ郡の先住民、イヌピアト族は長い間、付近の海岸の泥炭を燃料として利用しました。 ヨーロッパからの探検家が地形を地図化し、現地人と交易を行うためにアラスカを訪れた時、彼らはイヌピアト族と接触し、彼らが使う泥炭が原油で濡れているのを見てこの地域に大量の石油の埋蔵量があるのではないかと示唆しました。 1836年に ハドソン湾会社の役員、トーマス・シンプソンがノーススロープ郡で原油が漏れているのを発見し、石油の存在を初めて確認しました。

石油探索と開発は技術的な限界のため、 20世紀になるまで行われませんでした。 また、より アクセスしやすい場所に油層が存在し、 ノーススロープは遠隔地だったため、 開発は見送られました。 第1次世界大戦中、米国海軍が石炭ではなく 石油を燃料として使うよう彼らの船舶を改造したために、アラスカの石油へ の関心が高まりました。 米国にとって、軍隊の燃料として新たな石油の供給源を 確保することが重要になりました。 1923年から1925年にかけて、 米国地質調査所が石油を探すためにノーススロープ郡を調査しましたが、 その後何の措置も取られませんでした。

第2次世界大戦中にアラスカの石油開発に対する 興味が再燃し、 1940年代と1950年代に多くの調査が行われ ました。 ある程度の石油がノーススロープ郡で見つかりましたが、高額な開発費用のために 採掘をあきらめざるを得ませんでした。 しかし1957年に、 リッチフィールド石油会社がアラスカ南部のキナイ市の近くで 油井の採掘に成功すると、ノーススロープ郡の石油に対する興味が高まりました。

1968年にアトランティック・リッチフィールドがプルドーベイで 油井の採掘に成功し、大量の埋蔵量の存在が明らかになりました。 しかし 物流と費用が問題となり、開発は再び中止されました。 ノーススロープ郡は 人口が少なく、石油採掘用のインフラがほとんどありません でした。 またオイルタンカーは氷山が多すぎて北極海に入ることができず、 プルドーベイから原油を輸送することができませんでした。

この問題を解決し、プルドーベイからアラスカの南部沿岸 までパイプライン敷設する可能性を調査するために、 ハンブル石油精製会社、 ブリティッシュ・ペトロリアム、ARCOが1959年にトランス・アラスカ・ パイプライン・システムを設立しました。 このパートナーシップはパイプラインの可能性を調査するために政府の 承認を得ましたが、米国内務省が調査を行い、地下にパイプラインを 埋設するというパートナーシップの提案は可能ではないと主張したため、 建設が遅れました。 アラスカの永久凍土層とパイプラインが発する熱のために、 パイプラインの地下埋設が永久凍土層を溶解し、アラスカの風景に膨大な被害を 与えるというのがその理由でした。 その結果、ほとんどのトランス・アラスカ・ パイプライン・システムは地上に建設されることになりました。

1966年に内務長官、スチュワート・ユードルがアラスカ開発の 保留を命令したため、パイプラインの開発は さらに遅れました。 これは連邦政府がアラスカ先住民と土地の権利を 交渉するために行われました。 これを解決するために、 内務省とパイプラインパートナーシップは個々の村から パイプライン建設許可を取り付けました。 開発保留は最終的に 1969年に撤回されました。

しかし、パイプラインはまたもやアラスカ先住民と 新らたに出現した環境保護主義者の強い反対に合いました。 アラスカ 先住民はパイプライン建設による彼らの領土侵犯を懸念し、 環境保護主義者はパイプラインによるアラスカの野生生物に 対する被害を警告しました。 両グループは法的な異議申し立てを起こし、 建設は1973年まで中止されました。

1973年に第4次中東戦争が勃発し、石油輸出国機構(OPEC)はイスラエルを 支持した米国に対して石油禁輸を実施しました。 禁輸は全国で ガソリン不足を起こし、原油価格が高騰し、 OPECの禁輸措置を 回避するために多くのアメリカ人は自身の石油資源を 探す必要に迫られました。 これを背景にトランス・アラスカ・パイプライン・システムは議会を通過し、 1973年末にニクソン大統領により署名され、法として成立され ました。 建設は1974年に開始されました。

悪天応と現地の荒地によるルート変更問題のために、 パイプライン建設には3年間掛かりました。 パイプライン 開発中、32人の作業者が死亡しました。 1977年7月28日、パイプラインが 完成して運用が開始され、1バレルの原油がプルドーベイ油田から バルディーズの港まで無事移送されました。 同時にパイプラインとほぼ並列し、 プルドーベイ油田とフェアバンクスを結ぶ道路、ダルトンハイウェイの 建設も完成しました。

パイプラインの建設はアラスカと米国全体の 経済と文化に大きな変化を起こし、世界の石油市場に 大々的に登場しました。 パイプラインの建設はアラスカ での職を求める移民の移住を促進し、州の経済を増強するとともに、 犯罪の劇的な増加も引き起こしました。 アラスカ州政府 も石油産業からの税収により多大な恩恵を受け、 アラスカ州民は減税のために収入を 蓄えることができました。 ノーススロープ郡の石油産業 のサービスセンターとなったフェアバンクスは、経済活動の増加により 大きな変容を遂げました。

プルドーベイ油田は1980年代まで石油採掘をフルペースで 始めなかったため、トランス・アラスカ・パイプライン・システム は1970年代の世界の石油産業にほとんど影響を与えません でした。 パイプラインは過剰生産のために世界中の石油価格が下落する、 1980年代の石油の供給過剰の主な要因になりました。 プルドーベイ油田は ピーク時には、米国の石油総生産量の25パーセントを占めました。

建設の数十年後にトランス・アラスカ・ パイプライン・システムはプルドーベイ油田の生産量の減少により重要性が 薄れました。 アラスカ州は法により石油の生産が停止する時、パイプラインを解体することを 義務付けられていますが、今のところそれがいつ起こるかはわかっていません。 パイプライン から予期しない恩恵を被った1つのグループは、暖を取るために パイプラインの横に丸くなって横たわっていたアラスカの野生生物でした。 しかし パイプラインが促進した原油生産の増加は、1989年に起こった エクソン バルディーズ号の太平洋への石油流出事故を起こしました。

パイプラインがアラスカに変化を起こしたもう1つの理由は、 観光客のアトラクションになったことでした。 アラスカ州への観光客は滞在中、 世界でも珍しい地上のパイプラインの1つとして、このパイプラインを頻繁に 訪問します。 俳優のジョン・デンバー、 ノルウェー前国王オラフ5世、 フォード前米大統領など、多くの有名人や政治家がパイプラインを 訪問しました。 ほとんどのツーリストはフェアバンクスとプルドーベイ油田間を走り、 その大部分がパイプラインと並行するダルトンハイウェイを使用して パイプラインを訪問します。

結論

トランス・アラスカ・パイプライン・システムはアラスカおよび米国の重要な文化的、経済的な出来事です。 このパイプラインはアラスカ州に多大な影響を与え、当州がアメリカ経済において無視されがちな背景から重要な支柱の1つになることを可能にしました。 この文化的・環境的な偉業は、この州の最大の観光アトラクションの1つです。 アラスカを訪問されるなら、トランス・アラスカ・パイプライン・システムに立ち寄られることをお勧めします。

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